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さえぐさ日誌

2021.02.11

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知って、ビックリ!空海とカタカムナ!🤗

<密教は平安の頃、最先端のライフスタイルだった??>

空海は774年、四国、讃岐で生まれ、幼名、真魚(まお) 。
20歳の時、出家するも、25歳から31歳頃までの空海の
足跡は全く分かっていない😎

また後に、Chinaに渡航するが、それに必要な巨額な費用
をどうやって調達したかも分かっていない😎

ともかく、空海は31歳の時、私費留学生としてChinaへ
渡り、留学の予定は20年間。 さて、空海はまず梵語を
勉強する。

*空海に憧れた儂は若き日、大正大学で梵語を、また、
新約聖書を原文で読みたく、ギリシア語を学ぶが挫折。
凄いのはことごとく、直ちに暗記できる学友がいた事
である🤗

空海はそのほかにも当時Chinaにあった種々の文化を修得。

儒教や道教はもちろん、キリスト教・ゾロアスター教・
マニ教なども勉強。その一方で、多大の資金を投入して、
日本に持ち帰るための仏典の筆写をやらせ多数の仏教の
法具を購入!(資金源、謎🤗)

Chinaに着いてから1年たった時、青龍寺の恵果の下を
訪れる。恵果は密教の大きな二つの流れ「大日経」系と
「金剛頂経」系を共に継承した、中国密教の頂点に立つ
僧。空海が来るなり、恵果は他の弟子が驚くのを制止し、
自分の持っている全ての知識を彼に伝える作業を始める。

この伝授は3ヶ月後の恵果の突然の死によって終了するが、
空海は10年かかっても普通は伝えられないものを恵果から
伝えられたという。

恵果の法嗣を受けたのはこの空海と中国僧の義明の2人
だけでしたが義明はその後、若くして死んでしまい法灯
は日本に渡ることになりました。

空海は恵果が亡くなると20年間の留学の予定を切り上げて
ただちに帰国。これは契約違反ですから、本来死罪もの。
その為、空海は京都に入らず、博多に留まる。

そして、空海が早く帰ってきた事情と仏教の知識と多大な
貢物のことを書いた書状を天皇に送る(一緒に、筆と最高の
紙を贈呈)。

幸いなことにその書状を理解し、その重大性を天皇に進言
できる人物がいた。一足先に帰国していた国費留学生最澄
である。

最澄の言葉により嵯峨天皇は空海を新しい平安京に呼ぶ。
天皇が空海にその密教はどんなものか尋ねると、
空海は即身成仏の実際をお見せしましょう、と言い、

その場で印を結んで何か真言を唱えた。すると、
その時嵯峨天皇の目には空海の体が真っ赤な炎に包まれ、
その姿が大日如来に変身したように見えたという。

こうして空海は遣唐使の任を途中で放棄した罪を許され、
高雄山寺で真言宗の法灯をかかげることができました。

一方では彼は中国で学んだ知識を活かして各地の土木工事の
指揮を取ったり、また庶民教育のための学校を設立するなど、
非常に精力的な活動をしている。また、彼は書道でも非凡な
才能を発揮。

その空海にもやがて死の時が訪れます。空海は京を離れ、
高野山に籠り、2年間の闘病生活を経て835年3月21日死去。

空海の伝説は全国各地にあり、たくさんの温泉を見つけました。
(一族は鉱山師であり、水銀を鉱脈を探し、それが初期資金源に
なったとも言われ、その間に多くの温泉を発掘したとも言われる)

延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号を贈り、
空海の遺徳を讃えたという。

*空海がカタカムナ文献を見ていたこと、また、編集していた
ことは確かだと、昨年、急死された竹内睦泰氏は言われていた。